〜 泣いた!笑った!歌った! 〜

◆◇◆あかりヒメの『韓国平和巡礼の旅』報告記◆◇◆

〜LOVE & PEACE!〜

<前編>

                                      
8月12日 「脱北者の話を聞く」 の巻
ツアー4日目。そろそろ旅の疲れが出始める頃である。
集合も移動もスローになってきて、引率するスタッフはちょっぴりイライラ顔。
この日一行は、韓国の人権救護団体JTSを訪問した。
JTS(JOIN TOGETHER SOCIETY)の母体は、『浄土会』といって、
その名から察せられる通り、仏教の理念に基づいて様々な活動を行っている。

その一つが、北朝鮮の子どもたちに対する栄養食の支援
"北朝鮮への支援"なんて口にしたら、今の日本じゃ、
ブーイングの嵐が吹き荒れそうだけど、
「現在の北朝鮮の体制はよくないと思う」=「支援は一切すべきでない」
にまで、一気に突っ走っちゃうのってどうだろう?

拉致問題に憤るのは当然だけど、それは「日本人として許せない」という前に、
「人として許せない」であって欲しい。
そして同じく「人として」、隣の国で多くの子どもたちが飢えている現状に、
憤る自分でいたい。

「餓死する子どもは確かに可哀想だけど、あんな国に生まれるのが、運が悪いんだ。
しかたない」 そう言い切る人に出会ったことがある。
この人は、自分があちら側にいたとしても、「運が悪かった」で納得できるんだろうか?
人は生まれてくる国を選べないし、日々の食糧も満足に得られないような生活をしている人たちに、 ときの体制を支持するとかしないとか、そんなことを考える余裕があるとも思えない。
少なくとも、子どもたちに罪はないはずだ。
彼らが死んでゆくのを、「あんな国に生まれて運が悪い」と、
傍観してしまっていいのだろうか?
"あんな国"でも、"こんな国"でも、どんな国でも、新しい未来を造る可能性を持っているのは、 子どもたちなのに。

あるいは、「人道支援はいいけれど、本当に支援を必要としている子どもたちの元に届くのか?」 という不安を抱く人もいるかもしれない。
JTSは現在、北朝鮮の羅先(ラソン)市の子どもたちに、"直接"支援を行っている。
子ども用の栄養食に加工してから配布することで流用を防ぎ、 子どもたちの体格の変化を定期的に調べることで、その有効性をチェックしている。
何がどこの子どもたちに届いて、それがどのような効果を上げているか、 こうして明確に説明してもらえれば、支援に協力する人も安心だよね。

「今、手を打つことが大切なんです」
栄養食支援に説明してくれたJTSのスタッフはそう言ったけれど、日本にいると、
情報が少なく偏ってもいて、北朝鮮の実状がよくわからない・・・。
というわけで一行は午後から、北朝鮮からの食糧難民、
いわゆる『脱北者』の話を聞いた。

2003年の2月中旬に北朝鮮を出て、中国・ベトナム・カンボジアを経て韓国にやって来たというこの男性は、 北朝鮮軍の将校だったそうだ。
軍の幹部まで食糧難民になっているという事実に、まず驚かされる。
「自分が韓国にいると知れたら、国に残してきた妻子に危害が及ぶかも」ということで、 録音・録画・写真撮影には厳しい制約がついた。
それでも今回、初めて人前で話をする気になったのは、 あまりに実状が知られていないという強い危機感があったからのようだ。

食べ物もない、電気もない、代わりに燃料とするものもない、資材もない、 薬も医療品もない、わずかにある物は軍需用に回されてゆく・・・。
男性が語った北朝鮮の姿は、太平洋戦争末期の日本に重なるような気がした。
そして地方に行けば行くほど、窮状の度合いは増すようだ。
正確なデータは取りようもないが、90年代後半には、2〜300万人が餓死したと言われている。 そして数十万の人たちが北朝鮮を脱出して、中国や東南アジアをさまよっているとも言われている。

「生き延びるためには逃げるしかない」
話を聞かせてくれた男性の言葉である。
この男性は韓国で稼いだお金を、北朝鮮の妻子へと送っている。
むろん普通に送金することはできないから、様々な人の手を介して運ばれることとなる。 実際に送ったお金の何%が妻子の元に届くのか、心もとない話である。
もしかしたら、一銭も届かないことだってあるかもしれない。
けれど男性はこう言った。
「たとえ送ったお金のほんの一部でも届く可能性がある限り、
 私は一生送金し続けます」

・・・当事者の切実さがこもった言葉だよね。

「ほんの一部でも必要としている人に届く可能性があるならそれでいい」
支援物資を送る時、そこまで覚悟を決められる人はなかなかいないでしょう?
正直なところヒメは、100%は求めないにしても、できるだけそれに近いパーセンテージで届かないとイヤだ、 と思ってしまう。
やはり何事においても、当事者とそうでない者の意識の落差は大きいのだなと、
改めて感じさせられた。

そしてこの日何より驚いたのは、この男性が最初から最後まで、 まったく表情を変えることなく、実に淡々としゃべり続けたことであった。
彼の顔には怒りの色も、悲しみの色も浮かばず、まさに能面のようだった。
人間は心が押しつぶされると、こんな風に感情を表に出せなくなってしまうのだな、
そう思って泣き出しそうになったのは、こちらの方だった。

さて、この後一行は、浄土会大学生会のメンバーと、明洞(ミョンドン)へ向かった。
ソウル一の繁華街で、街頭募金を行うのである。
「北朝鮮の子どもたちに栄養食を送る募金にご協力ください」
という韓国語を教えてもらい、さあ、がんばって街行く人に声をかけよう!、
と意気込んではみたものの・・・。
これがね、ふぅ〜。三歩進むと、もう言えない。
何度聞いても、すぐ忘れる(汗)。だって呪文みたいなんだもん!

というわけで、仕方なくターゲットを日本人観光客に変更。
「すみません。今、韓国の学生さんと一緒に募金をしてるんですけど・・・」
と声をかけると、お財布にたまった小銭をまるごと寄付してくれる人が結構いました。
ご協力ありがとう!

みんなで小一時間ほど募金をして、集まったお金は30万ウォン(約三万円)也!
やはり韓国の人たちには、同じ民族が苦しんでいるという意識があることを実感。
(・・・といっても、一時間で三万円ってそんなにすごいの?
 と思う人がいるかもしれないけど、同じ募金を東京でやった時は、
 二時間がんばっても数千円単位だった。)

この日の夕飯は、一緒に募金をした学生さんたちと。
この時、こんなことを言った韓国の学生さんがいた。

「北朝鮮のことは僕らの問題なのに、こうして一緒に考えてくれる日本人がいることに驚いた。 正直これまで日本に対していい印象を持っていなかったけれど、 今日、日本にもいろんな人がいるんだとわかった。一緒に募金をして良かった」

韓国に根強い反日感情が存在するのは事実だ。
でも、顔と顔を突き合わせて一緒に何かをすることで、それはきっと変えていける。
願わくば、どんな人と人のつながりもそうであって欲しい、 そんなことを思った夜でした。

8月11日 「韓国の国会議事堂に入る」 の巻
『ナヌムの家』で一夜を明かした一行は、この日まず、ソウルの鍾路区にある、
日本大使館前へと向かった。
ここで毎週水曜日、元日本軍"慰安婦"に対する、
日本政府の公式謝罪と法的賠償を求める、「水曜デモ」
が行われているのだ。
ツアースタッフに聞いたところによると、1992年1月8日に始まった「水曜デモ」は、
以来毎週欠かさず行われ、中止されたのは一度だけ(2004年夏時点で)。
日本の神戸で震災が起こったとき、だそうである。

折りしもこの日は、8月15日の解放記念日に最も近い水曜日。
毎年、デモが最大規模となる日である。
猛暑の中、お年寄りから子どもまで、多くの人たちが集まっていた。
元"慰安婦"のハルモニたちのほとんどは、既に80歳を超えている。
高齢のハルモニたちにとって、デモに参加することは、
肉体的にも精神的にも、大きな負担となっているはず。
それでも彼女たちは、「日本政府が私たちの要求を聞き入れるまで、
明日死ぬとしても、今日もデモに行く」
と言っているそうだ。

この日、炎天下のデモ会場で、マイクを握っていたひとりのハルモニが、
路上に倒れ込んだ。
慌てて駆け寄った人たちが助け起こそうとするが、ハルモニはマイクを放そうとしない。 昂ぶった気持ちを抑えられないのだろう。
アスファルトの地面の上で、手足をばたつかせながら叫び続ける。
壮絶の一言に尽きた。

しかし、ハルモニたちがどんなに声を上げても、
日本政府の立場は、「慰安婦問題は決着済み」である。
デモ会場から見上げた日本大使館は、窓もブラインドもぴたりと閉ざしていた。
真夏の強烈な日差しと、熱気を遮るためだとわかってはいても、
その姿はまるで、頑なに沈黙を守ろうとしているかのように思えた。

昼食後、韓国青年連合会(KYC)の本部事務所を訪問。
韓国の若者たちが、政治に無関心な同世代(20代・30代)の若者たちに向け、
大統領選挙や国会議員選挙への投票を呼びかけるために行ったキャンペーン、
"2030有権者連帯"について、スタッフから話を聞いた。

韓国の若い世代は、日本の若い世代に比べれば、ずっと政治への関心が高い。
それは、朝鮮半島(韓半島)が2つの国に分断されたままになっている状況や、
徴兵制が存在することを考えれば、当然と言えるかもしれない。
しかしその韓国でも近年、若い世代の政治離れが問題となっていたそうだ。
そこで始まったのが、"2030有権者連帯"

「政治をもっと自分たちに近いものにしよう」と考えた若者たちが、
20代・30代の投票率を上げるために、様々なアイデアを出し合い、
実現させて行った。
大学に、不在者投票所を設置するよう働きかけたり、
人気俳優や歌手に協力してもらったり、インターネットのバナーを利用したり、
大学のOBからのメッセージ・メールを配信したり。

こうして、「若者らしく、どんどん新しいことをやっていった」結果、
政治は自分たちにより近いものと感じられるようになった、という。
課題は、こうしたキャンペーンを一過性のものとして終わらせないこと。
「韓国の若者も、日本の若者も、政治は硬くてつまらないと決めつけず、
どうやって面白く楽しく、政治に参加していくかを考えよう」

話はそう締めくくられた。

次に一行が向かったのは、韓国の国会議事堂
ぞろぞろと列をなして建物に入っていく姿は、まるで小学校の社会科見学。
でも、ちゃんと、議員さんと会う約束があったのです。
韓国では2004年春の総選挙で、改革派・進歩派が保守勢力を抑え大躍進。
民主化運動出身の候補者が、続々当選するという、
一昔前には想像もできなかったことが現実となり、一気に世代交代も進んだ。
今回、面談に応じてくれたのも、そんな若手議員の一人である。

さて、議事堂の会議室に案内された一行だが、
そのほとんどが、汗まみれのTシャツにジーンズという出で立ち。
・・・いささか場違いである。
そこへ颯爽と登場した議員さん。
当たり前のことながら、スーツにネクタイ姿で、髪もばっちり整えている。
しかし、PKNJのTシャツをプレゼントすると、
「私も本当は皆さんのような格好をしていた方が気が楽なのですが、
今はそういうわけにもいかなくなってしまって」
と、にこやかに受け取ってくれた。
この議員さんに、日本との関係についてどう考えているか、
東アジア全体の平和のためにどのような政策をとっていくつもりなのか、
等の話を聞いた。

これにて本日のスケジュールは終了。あとは自由行動である。
三々五々、ソウルの街へと散っていくツアーメンバーたち。
で、ヒメはどうしたかと言いますと、ピースボートで一緒だったスタッフ&友人と、
そのクルーズに、ゲストとして乗船していた韓国人に会いに行ったのである。
韓国は情の厚いお国柄。客人を本当に温かくもてなしてくれる。
というわけで、この夜ヒメたちは、おいしい焼肉と焼酎をいただきながら、
おしゃべりに花を咲かせたのでした。

8月10日 「『ナヌムの家』を訪ねる」 の巻
さて、ツアー二日目。テグを後にした一行は、バスで北上。
京畿道の廣州(クァンジュ)にある、『ナヌムの家』を目指した。
『ナヌムの家』で共同生活をおくっているのは、元日本軍"慰安婦"のハルモニたち。
到着後すぐに、日本から来ていた別のグループと一緒に、ハルモニの話を聞いた。

81歳のこのハルモニは、現在の韓国南部の出身。
17歳のある夜、水汲みに出かける途中で、日本軍に捕まったそうだ。
1941年のことである。
軍用トラックと列車で、何日も移動を繰り返し、最終的に降ろされたのは、中国。
ソ連との国境近くにあった日本軍の集落で、兵士の相手だけでなく、
家畜の世話、防空壕作り、裁縫仕事などもさせられながら、4年間を過ごしたという。

そして日本が降伏した、1945年8月15日。
ソ連軍の侵攻と、日本軍兵士たちの敗走が始まる。ひどい混乱状態だったそうだ。
とり残されたハルモニたちは、人気のない山に逃げ込み、何日もさまよい、
ようやくたどりついたある集落で、
「今はとても動ける状況ではない。もっと落ち着いてから朝鮮へ帰った方がいい」
と諭されたそうだ。
そして・・・。
結局その後60年間、その村で、つまり中国で、過ごすこととなってしまったのである。
"慰安婦"にさせられたという痛みも想像を絶するけど、
60年という歳月の重みもまた、想像の域を超えている。

そしてハルモニの話を聞きながら、ヒメは、"拉致被害者"のことを思い出していた。
日本による"慰安婦"問題と、北朝鮮による"拉致"問題。
時代や舞台背景は違う。
しかし、ごく普通の人が、ある日突然、それまでの生活から力ずくで切り離され、
取り戻しようのないほど、人生を大きく変えられてしまうという点は共通している。
どちらも人として、絶対に許されないことだ。
戦時下だからとか、友好関係にないからとか、そんな言い訳を通していいことじゃない。

さて、中国で暮らしていたハルモニが、韓国へ戻って来たのは、2001年
元慰安婦を支援している韓国の団体からコンタクトがあり、
弟さんを捜し当てることができたのだ。
むろん何十年も行方不明だったわけだから、既に死亡届が出されていた。
それを回復したのは、2003年である。
そしてこれは、中国と韓国の間に国交が成立し、
しかもハルモニが、中国籍を取得していたからこそ、可能だったことである。

中国にいることがわかっていながら、生まれ故郷のある、または家族のいる韓国に、
戻ることが叶わない元慰安婦たちもいる。
それは彼女たちがずっと、"朝鮮籍"のまま中国で暮らしていたからである。
ハルモニたちが中国に取り残されている間に、朝鮮半島は南北に分断され、
ふたつの国が生まれてしまった。両者は、今も休戦状態にある。
だから"朝鮮籍"の人は、韓国には入国できない。
・・・彼女たちは、国とか政治とかいうものに、いまも翻弄され続けているのだ。

話を聞き終わって、感じたことはふたつ。
ひとつは、「"慰安婦"問題は、もはや過去の話」と言う人がいるけれど、
当事者にとっては、生きている限り続く問題なのだということ。
そしてもうひとつは、慰安婦の問題も、被爆者の問題も、
時間との闘いであるということ。
戦後60年、被害者たちは、みな高齢である。残された時間は少ないのだ。

この日一行は、一ヶ月半前に亡くなられた、キム・スンドクさんのお墓に花を捧げた。
施設内にある『日本軍慰安婦歴史館』には、このキム・スンドクさんをはじめ、
元慰安婦のハルモニたちが描いた絵が、展示されている。
どの絵からも、彼女たちが抱いていた怒りや哀しみが、ストレートに伝わってきた。

そしてここでもハルモニたちに、歌や楽器の演奏を披露。
新たにレパートリーに加えられたのは、バンド「寿」"我ったーネット"
"我ったー"というのは沖縄の言葉で、「私たち」という意味だそうだ。
<海や空とつながっているように、人間同士もつながっていこう>という、
とても素敵な歌だ。
ツアーが終わるまでに、この歌を何度も歌うこととなった。
今思い返すと、まるで今回のツアーのテーマソングだったような気がする。

この夜は、『ナヌムの家』に宿泊。
手違いがあったらしく、総勢二十数名の男女が、大部屋で雑魚寝することに。
まるで、大学のサークルの合宿みたい!
お酒とジュースとつまみを持ち込んで、ちょっとした宴会となる。
初日に、バスの中で簡単な挨拶をしただけだったので、
改めて参加者が、一人ずつ自己紹介をした。

ところで、「わざわざスタディーツアーなんてものに参加するなんて、 いったいどんな人たちなんだろう?」と思うかもしれないが、 ホントにみんな、ごくごく普通の若者でした。
一番多かったのは、ヒメと同じ、ピースボートのクルーズ経験者。
ツアースタッフに、ピースボートの関係者が多かったせいだと思うけれど、
彼らに声をかけられて、「普通の旅行じゃなかなか行けないところに行けるし、 クルーズで知り合った韓国人にも会えるし」ってな感じで参加した人が、結構いたみたいだ。

なので、中にはとてもよくいろんなことを知っていて、
ビシバシ質問している人もいたけれど、ヒメを含むほとんどの人は、
質問するほどの知識もないので、どこへ行っても、とりあえずひたすら話を聞く、
という感じだったのである。
ま、「ごくごく普通」とは言っても、個性豊かなメンバーが集まっていたことも確か。
ツアー二日目の夜も更け、ちらりちらりとそれぞれの本性(?)が見え隠れし始めた頃、宴会は終わったのであった。

8月9日 パート3 「秀吉より、ウォンビン&チャン・ドンゴン!」 の巻
話が前後するが、この日一日、日本からやって来たスタディーツアーの一行と、
行動をともにしてくれた人たちがいる。
韓国青年連合会(KYC)大邱(テグ)支部のみなさんである。
テグKYCの若者たちは、被爆者のハラボジ・ハルモニと"縁組"し、
一対一で向き合うことで個々の絆を深めながら、
原爆被害の記憶を受け継いでゆく活動を行っている。

移動中のバスの車内では、韓国人と日本人が話をできるよう、
なるべく入り交じって座り合った。
ヒメの隣に座った男の子は、テグKYCのメンバーではなく、
この日たまたま誰かに誘われて来たらしい。
・・・らしい、などと怪しげな書き方になるのは、言葉の壁が厚く、
うまくコミュニケーションがとれなかったからであーる。

韓国語の電子辞書を使い、最も原始的な"単語指差し法"で彼から聞き出せたのは、
コンピュータ関連の勉強をしている大学生であることと、
アニメが好きらしいということだけだった。
うむむ・・・。なぜもっとマジメに韓国語を勉強しておかなかったのだろう。
後悔先に立たずとは、まさにこのことである。

さて、在韓被爆者福祉会館を後にした一行は、豊臣秀吉の朝鮮侵攻に関する史跡へ。 恥ずかしながら、日本史の教科書に出てきたことは覚えているものの、
"文禄の役""慶長の役"という言葉がやっと出てくる程度の記憶しかない。
ついつい史跡そのものよりも、高台から見渡せる景色の方に、
気を引かれてしまうヒメであった・・・。

そしてこの後、思わぬおまけが!
バスが向かったのは、映画『ブラザーフッド』の撮影セット場!
撮影終了後、地元に寄贈され、テーマパークのような形で一般公開しているのだ。
実は一行が到着した時、既に閉園時間を過ぎていたのだが、
バスの運転手さんが交渉してくれ、中に入ることができたのである。
すると!先ほどの秀吉の史跡ではおとなしく見学していた一同が、
いきなり大はしゃぎ!!

ウォンビン&チャン・ドンゴンの等身大パネルと肩を組んでみたり、
軍用ジープや戦車に乗ってみたり、ヘルメットをかぶり銃を構えてみたり。
・・・えっと(汗)、いちおう「平和」がテーマのツアーなんですけどね。
ま、あんまり固いこと言わないでくださいな。要するにみんなミーハーなのだ(笑)。
映画のセットというだけで、なんか嬉しくなってはしゃいでしまうのだ。
そして正直ヒメは、そういうみんなの姿を見てホッとした。
ミーハー、いいじゃないの。 いろんなことにアンテナのばして、いろんなことを受け入れる素地があるってことだもの。

セット場には、『ブラザーフッド』を観た人なら忘れられないであろう、
あの列車も残されていた。
そう、朝鮮戦争勃発後、家族とともにソウルから逃れてきた兄弟(チャン・ドンゴン&ウォンビン)が、 軍の強制徴用に遭い、乗せられてしまった軍用列車である。
走り出した列車の窓から身を乗り出した兄弟と、
それに追いすがる母親と婚約者が無情にも引き裂かれていく、
涙、涙のあのシーン。
ええ、みんなついついやっちゃいましたよ。
ウォンビンになりきって、「母さ〜ん!!」ってね。

さて、さんざんはしゃぎ回った後、再びバスに乗り込もうとした一行に思わぬトラブルが。 バスのドアがロックされてしまい開かないのだ!
運転手さんを含む全員が締め出しを食らうという、
なんともおマヌケな状態になってしまった。
日は既に暮れはじめている。
しかし旅もまだ始まったばかり、みんな気持ちに余裕がある。
「今夜はここのセットに泊まろうか」、「夏でよかったよね」などと冗談を言い合いながら、 待つこと数十分。
ついに運転手さんが力業でドアをこじ開けた!
わき上がる拍手と歓声!いぇ〜い!
・・・初日からとんだ珍道中である。

夕食は交流会をかねて、テグKYCのみなさんと。
そして、この夜泊まったのはテグ市内のモーテル。つまり、ラブホである。
怪しいピンクの室内灯。ガラス張りのバスルーム。
まぁるいベッドで、仲良く一緒に寝るはめになった男の子たちが騒いでいたら、
韓国人に「なにがいけないの?」と首をかしげられてしまった。

韓国では同姓の友達同士でも、安く泊まれるということで、
ごくごく普通にラブホを利用するらしい。
なるほどー。思わぬところで文化の違いを感じながら、
ツアー初日の夜は更けていったのであった。

8月9日 パート2 「ヒメ、被爆者のハルモニに励まされる」 の巻
さて、歌って踊って盛り上がった後は、フリー・トーク・タイム。
それぞれ自由に、被爆者のハラボジ・ハルモニと話をする。
一対一で向き合う人もいれば、小さく車座を作る人たちも。
ヒメも、近くにいたハルモニの前に座り込んだ。
そして「アンニョンハセヨ」と声をかける。
するとハルモニは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりと口を開いた。

「遠いところへ、よくいらっしゃいました」

そのなめらかな日本語を聞いた瞬間。なんてこと!
ぶわっと涙があふれてきてしまったのである・・・。

正直に言おう。
ヒメは、被爆者のハラボジ・ハルモニと話をするのが怖かった。
だって、彼らが日本人にいい感情を持っているわけがない。
そもそも、彼らはなぜ、日本で被爆したのだろう?
終戦までの三十五年間、朝鮮半島は日本の植民地だった。
この間多くの人たちが、朝鮮半島から日本へと渡ってきている。
生活が厳しく職を求めてやってきた人もいれば、
徴用工として強制的に連れられてこられた人もいた。
ヒロシマ・ナガサキで原爆に遭ったのは、そういう人々と、その家族である。

日本の被爆者たちが、どれほどの辛酸をなめたかということについては、
日本人ならある程度の知識はあるだろう。
日本の敗戦後、故国に戻った在外被爆者たちには、さらに高い壁が立ちはだかった。
原爆被害に対する理解は低く、日本から被爆者手帳が交付されないため、
援助を受けることもできない。
反日感情の強かった韓国で、"戦争中日本に協力した者"と見なされることを恐れて、
日本で被爆した事実を、口にできないまま亡くなった人も多かったようだ。
ちなみに、北朝鮮にも多くの被爆者がいるが、日本と北朝鮮は国交がないので、
彼らに対しては、今も何の援護もされていない。

・・・とまあ、そういうもろもろを頭に入れた上で、
ヒメは被爆者のハルモニと向き合ったのである。
戦争中の話なんて自分には関係ないよ、という若い人もいるだろうけど、
ヒメはそうは思わない。
自分の国が過去に何をしたのか知るのは、とても大切なことだ。
それは"自虐的歴史観"なんて言葉とはぜんぜん関係ない。

過去を知るのは未来のためだ。
過ちがあったのなら、それを繰り返すことのないように。
不和を招いてしまったのなら、それを修復し新しい関係を育むために。
話す方にとっても、聞く方にとっても、楽しい話ではないかもしれない。
でも、ちゃんと聞こう。ちゃんと話をしよう。そう思っていた。
嗚呼、それなのに、それなのに!

ハルモニの声があんまりやさしかったので、ついボロッときちゃったのだ。
いきなり泣くなんてイケてない。泣かれた方だって困るだろう。
だけどそのハルモニは、黙ってヒメの手をとってさすってくれた。
それから、気を取り直し、体の具合について尋ねたヒメに、こう言ったのである。

「あなたの方こそとっても細いけど、どこか悪いところがあるわけじゃないのね?」

そして、差し入れのバナナ牛乳(とてもおいしい!)を、
「元気出して。飲みなさい、飲みなさい」と、一生懸命すすめてくれたのである。

・・・あぅ。
あ、ありえん展開だ(落涙)。
それから二人でぽつり、ぽつりと話をした。
日本にいた頃のこと。韓国に帰ってきてからのこと。
今現在の、この施設での暮らしぶり。
韓国のハルモニたちは、概して日本のおばあちゃんたちより威勢がいいような気がするけれど、 ヒメが話をしたハルモニは、とても穏やかな人だった。

短い交流時間が終わって、ツアーメンバーはバスに乗り込んだ。
たくさんのハラボジ・ハルモニが、バスを見送ってくれた。

余談になるが、泣きながら手をさすってもらっていたヒメは、目を引いたのだろう。
帰り際、取材に来ていた地元テレビ局の記者がインタビューを申し込んできた。
ひょえ〜!
ヒメはスナップ写真に写るのもイヤなくらい、カメラが大・大・大の苦手なのである。
しかし逃げるわけにもいかない。

ここへ来るのが怖かったこと。でも、ちゃんと話を聞きたかったこと。
つい泣いてしまったこと。
互いに過去をちゃんと知った上で、若い世代が新しい関係を築いていけばいいいのだと、 今日ハルモニと話をしていて改めて思ったこと。

・・・などなどを話すつもりだったのだが、かなりしどろもどろで脈絡のないことを口走っていたような気がする。
そう、何をしゃべったのか、ほとんど記憶にないのだ!
覚えているのは、「お願いだからこのテープは使わないでね」 という気持ちでいっぱいになりながらしゃべっていたことだけである。

しか〜し!後日、都内で開かれたイベントで、ツアースタッフのひとりに会ったとき、
彼はヒメにさらりと言った。
「被爆者会館のインタビュー、ばっちり映ってたよ」
ひょえ〜!・・・絶句&反省。
いいオトナなんだから、もうちょっと自分の思ってることを、
きちんと人前で話せるようにならなければ。

さらに余談になるが、ヒメはハプチョンの被爆者会館で、もうひとつ反省した。
もうちょっと太らなければ。
ハルモニに、こちらの体の心配なんてしてもらわなくてもいいようにね!

8月9日 パート1 「スタディーツアー、幕を開ける」 の巻
待ちに待ったツアー初日である。
・・・であるが、実はこのとき、ヒメの胸は不安でいっぱいだった。
原因はいくつもある。そもそもヒメは団体行動が苦手である。
その上、けっこうな人見知りでもある。そして、ちょっぴり虚弱体質である。
そんな人が、である。
20数名の団体に加わって、初めて出会う韓国の人たちと交流、交流、
また交流を繰り返しながら、一週間にわたりタイトなスケジュールをこなす、
そんなツアーに参加しよう、というのである。
ありゃま、無事、乗り切れるのか!
しかし、そんなヒメの不安など誰も知る由もなく、ツアーは幕を開けたのだった。

この日、前日までに飛行機で韓国入りしていたソウル集合組は、
早朝バスに乗り込み、韓国東南部にある大邱(テグ)を目指して南下。
鉄道で北上してきたフェリー利用の釜山集合組と、東大邱駅にて合流。
スタッフ4名、参加者19名、計23名のツアーメンバーが顔を揃えたのである。

さて、一行は昼食を終えてから、最初の訪問地、
陜川(ハプチョン)在韓被爆者福祉会館へ。
ここで暮らしているのは、広島・長崎で被爆した
ハラボジ(おじいさん)・ハルモニ(おばあさん)たち。
この施設のハラボジ・ハルモニのように、
日本で被爆した後自分の国へ戻った人たちは、"在外被爆者"と呼ばれ、
韓国・北朝鮮・中国はもちろん、アメリカやブラジルなどにもいるそうだ。

彼らは長らく、日本で被爆したにもかかわらず、
現在日本に住んでいないという理由で、被爆者手帳をもらうことも、
健康管理や治療のための手当てをもらうこともできなかった。
「被爆者はどこにいても被爆者である」として、
在外被爆者にも、被爆者援護法を平等に適用することを命じる判決が下りたのは、
なんと2002年12月
ごくごく最近のことである。

おりしも一行が被爆者会館を訪れた8月9日は、長崎に原爆が投下された日。
到着後、敷地内の慰霊堂に千羽鶴を手向け、黙祷・・・。
そしていよいよ、入所者の皆さんとの交流会!
スタディーツアーのメンバーは、行く先々で出会う韓国の人々に楽しんでもらおうと、
ささやかながら仕込みをしてきたのである。
メンバー有志が日本から持ち込んだのは、ジャンベとギターとバイオリン。
不思議な組み合わせだとか、日本の伝統文化じゃないね、などと言うなかれ。
楽しく盛り上がればいいのだ!

まずはジャンベの演奏から始まり、ギターに合わせて"涙そうそう"を歌い、
三番手にバイオリンが登場。
そして最後は、♪あ〜りらん、あ〜りらん、あ〜ら〜り〜よ〜〜〜♪
定番"アリラン"をエンドレスで大合唱、のはずであった。
しかし実は一行、今朝バスの中で、
この"アリラン"の歌詞を覚えてきたばかりなのである。
初めての交流会で緊張していたのと、にわかじこみの悲しさで、
大合唱と呼ぶにはいささかパワー不足の歌声・・・。嗚呼・・・(泣)。

と、そこへ、「あたしにまかせなさいな」とばかりに、ハルモニたちが出てきた!
歌う。踊る。みなさん、驚くほど芸達者!!
圧倒されると同時に、盛り上がってよかったと、
ほっと胸をなでおろす、スタディーツアーのメンバーたちであった。






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