わたしは子供の頃から、本を読むのが好きでした。
あまりに本のリクエストが多いので、いつの間にか、図書館に通うように言われ、
そこは、わたしの書庫となりました。
小学校の高学年になると、さっさと図書委員長になり、
まだ木造だった図書室を、
委員長の権力でもって、夕方遅くまで独り占めしてました。
一度に読める本は一冊しかないのに、まったく、ヤな子です。
でも、そんなわたしにも、物言わぬ本たちは、
見知らぬ世界を、惜しげもなく見せてくれました。
今でも古い図書室の、かび臭い紙の匂いや、本の配置を、
まざまざと思い出すことができます。
わたしは、主人公たちと一緒に、秘密の花園の鍵を探し、
北欧の妖精たちと不思議な会話をし、パール・バックの大地を歩き、
シェークスピアに出てくるお月様を眺め、やがて恋の哀しさを知り、
人を裏切り、絶望に打ちのめされ、命のはかなさを知り、冒険に血をたぎらせ、
許すこと、愛することが、狂気と引き換えになるほど、
危険で尊いものだと知るようになりました。
その書物の中に、生き方を変えるほどの衝撃を与えてくれた本は、あったかしら?
そういう幸せな、あるいは絶望的な出会いを、わたしはしたかしら?
たぶん、イエスです。
書物にどっぷりと浸かり体験した出来事は、実体験と同じほど豊かで、
時にはそれ以上に、生きていく上での大切な栄養を、与えてくれたはずです。
ただ残念なことに、わたしの人生では、今のところ、
あの主人公たちと同じような、ドラマチックな冒険に出会わないだけで・・・。
さて、今回ご紹介する映画、「小さな中国のお針子」は、
一冊の本が、人生を変えていくお話です。
時代は、1971年の中国。
文化大革命の嵐が吹き荒れた時代、医者を親に持つ、17歳のマーと18歳のルオは、
反革命分子の子として、再教育のため、山奥深くに送り込まれ、
文化の香りのまったくない村で、屈辱的な強制労働を強いられます。
ある日二人は、年老いた仕立て屋と、美しい孫娘のお針子に出会い、
その少女に恋をし、文盲のお針子に物語を語り聞かせ、
文字を教えてあげたいと思い立ちます。
ちょうどその頃、同じ村にいた"めがね"というあだ名の男が、
外国の本を隠し持っていることを知り、二人はその本を盗みます。
フロベール、ユーゴー、トルストイ、ディケンズ、ロマン・ロラン、
デュマ、ルソー、そしてお針子のお気に入りの作家、バルザック。
これら反動的とされ、禁止されていた本を隠れ読み、その世界に没頭することで、
青年たちは、あまりに理不尽な現実を忘れ、若い魂を震わせながら、
文学の森で、言葉や思想と情熱的な出会いをします。
けれども、書物が与えた至福は、青年たちだけのものではありませんでした。
書物からの声は、小さなお針子の心にも、ちゃんと届いていたのです。
しかも、青年達が受け取るより以上の大きさと重さで。
方言丸出しの純朴な村の少女は、次第に自由という意識に目覚め、
彼女の魂は、いきいきと内面から輝き始めます。
さらに読み書きを学ぶことで、自分の頭で考えることを知り、
心のままに人を愛する歓びにひたり、奔放な女性へと、
成長していくのです。
書物はただ、山の向こうにある世界を彼女に見せただけでした。
その声が、お針子の胸の奥深くに眠っていた部分を呼び覚まし、
彼女はその声に、正直に応えただけなのです。
しかしその結果、知識人である青年たちすら想像もしていなかった高みへと、
彼女の魂は、旅立つことになりました。
書物との出会いは、時に恐いもの。
なぜなら、言葉には力があるからです。
でも、人生を変えるほどの言葉に出会えるなら、
言葉の海に飛び込み、
その呼びかけに、勇気をふりしぼって応えることは、
ただ一人の恋人と愛し合うのと同じほど、運命的な冒険にちがいありません。
言葉との出会いが、すぐそこにあるのと同じように、
現実の世界もまた、わたし達に向かって開いています。
そこに踏み出すことを、恐がらなくてもいいと教えてくれたのも、
わたしの場合、お針子と同じように、書物の中の言葉でした。