村の中を、戦車が走る。
銃を撃つ訓練も受けていない新兵が、最前線に歩いて出かける。
霧が深く、うっかり適地に迷い込むこともあれば、敵に遭遇することもある。
敵も同じ村に住み、同じ言葉を話すので、自己紹介の握手なんて
しちゃったりする。
この映画、戦争映画であるにもかかわらず、凄惨なシーンは
ほとんどなく、
それどころか、日常の続きで戦争をやっている、というおかしな感覚だけが、
いつまでも胸に残る、怖い映画です。
泥沼化したボスニア戦争が、舞台であるにもかかわらず、
ストーリーはいたってシンプル。
ボスニアとセルビアの中間地帯、<ノー・マンズ・ランド>の塹壕で、
ボスニア兵のチキと、セルビアの新兵ニノが、うっかり出くわします。
敵同士の二人ですが、この中間地帯という特殊な場所は、最前線でもあり、
当然、両軍から狙われてもいます。
だから、この状況から生きて脱出するためには、
敵同士の二人が、互いに協力し合わなければなりません。
さらに、二人の緊張度を高めているのが、
チキの友人、ボスニア兵のツェラの存在。
何と彼は、撃たれて死んだものとして、地雷の上に横たわされていました。
それも、ほんの少し身体を傾けただけで、
回りの者を巻き込んで爆発するという、
ジャンプ型の地雷の上に。
しかし残酷なことに、彼は気絶していただけで、生きているのでした。
不条理な現場に居合わせた、この3人の力関係を決定するのは、
腕っぷしでもなければ、知性やアイディアでもなく、
その時、誰が銃を手にしているかによる、というのが、笑わせます。
しかも、どっちが先に戦争をしかけたかという、不毛な言い争いを
続けているうちに、
なぜ自分たちが闘っているのか、そもそもの根拠を見失う過程が、
実にパンチのきいた、皮肉たっぷりのユーモアで、語られて
いくところが、
この映画のすごいところ。
そして、希望と絶望の両方をちょっとずつ感じさせるのが、
中間地帯の塹壕で、彼らがうち解けていく様子です。
チキが以前つきあっていた、胸のおっきな女性が、
実は、ニノの同窓生だったということが、分かった時に流れる、
友達同士のような、和やかなムードに、くすっと笑ったりもします。
でも所詮、敵同士であることには変わらず、
また口汚くののしり合う二人。
それを見て、地雷を背に、絶望的な気分のツェラが、チノに言います。
『(気分は)最高だよ。攻撃を受けて、意識が戻ったら地雷の上。
世界中が注目だが、クソがしたい。お前の話もうんざりだ。』
身動きできない彼こそが、この戦争の愚かしさと
悲劇を、見抜いているのです。
そうこうするうちに、互いの軍が、彼らが塹壕に取り残されていることに気づき、
二人を救出するために、国連防護軍に助けを求めます。
その無線をチェックしていた、ハイエナのようなマスコミをも巻き込んで、
ストーリーは、いよいよ抜き差しならない状況へと、
発展していきます。
国連軍を利用して、金儲けのために奔走するマスコミも問題ですが、
一番考えさせられたのは、国連軍の存在でした。
実際、国連軍は、人道援助の名の下に、餓死や凍死は防ぐけれども、
爆撃や銃撃で殺される市民は、見殺しにしました。
守ったのは、人間ではなく、食料や水を運搬する輸送車だけでした。
市民が虫けらのように殺されても、感知せず、
ただ戦場が、これ以上拡大しなければそれでいいという態度は、
現実を無視するよりも質が悪く、卑劣としか思えません。
この映画の中でも、国連軍は、結局、介入せずに去っていきます。
走り去る国連軍を見送る時、莫大な援助金を出しながら、
自分たちの理念も、意見も、まして調停者として介入することすら、
頭になかった日本人への、痛烈な批判も感じました。
同時に、平和な日常というものが保たれているのは、
そこで暮らしている時には、当たり前でも、
一歩外から覗いてみると、いかに危ういものなのか、
そして平和は、奇跡的なバランスでもって、
保たれてるだけなんじゃないか、
と思えてきたりもします。
この愚かしいまでの人間の悲劇を、苦い笑いでくるんだ監督は、
脚本も兼ねている、ダニス・タノヴィッチ。
彼は23歳の時に、実際に、ボスニア軍に従軍し、
カメラを持って、最前線で撮影していたそうです。
その彼が、どちらの側にも立たずに、反戦映画をつくり、
『世界に対立は確かに存在する。
だから、世界を支配するのは、愛のパワーでなければならないんだ。
この映画の意図は、あらゆる暴力に対する僕の意思表示なんだ。』
こう話す彼の映画には、戦争には、
勝者も敗者もなく、
ただ、絶望の苦しみで胸裂かれる者だけしか存在しない、
ということが強烈に伝わってきます。
そして、他国の戦争を無視することは、
自分たちの平和をも、無視する行為だと、
教えてくれていると思うのです。