31歳で自殺し、没後29年を経て、ピュリッツアー賞を受賞した詩人、
シルヴィア・プラスの生涯を描いた作品です。
1931年、マサチューセッツ州で生まれたシルヴィアは、裕福な家庭に生まれ育ち、
幼少時代から新聞に作品を投稿するなど、神童として知られていました。
そんな彼女が、詩人になるという夢を抱いて、ケンブリッジ大学に入学し、
創作活動に熱中する中、イギリス人の大学院生、テッド・ヒューズの作品を読み、
彼の才能に感銘を受け、あるパーティで出会うと、
自分をおびやかす存在であることに気づきつつも、
互いの中に、強烈に惹き合うものを感じ、二人は恋に落ちます。
卒業と同時に結婚。
シルヴィアは、愛する夫の成功を願い、献身的に支えることで、
テッドの作品が、ニューヨークで賞を受賞し、文学界で名を上げ始めるのですが、
シルヴィアの方は逆に、ただの一行も書けなくなり、その焦燥感や枯渇感、
さらには、日常を支える主婦として、二人の子供の母として生きる自分と、
詩人としての葛藤から、心のバランスを失い始めていきます。
もともと繊細な神経を持ち、それゆえ学生時代、自殺未遂を起こしたシルヴィア。
その鋭敏な神経が、ハンサムで常に女性に囲まれてしまう夫に向けられたとたん、
嫉妬と執着心という形で爆発する彼女の情熱は、目をおおいたくなるほどすさまじく、
こんなことをされたら、どんな男性も耐えられないだろうと思うほどの破壊力で、
詩人として結ばれていたはずの愛ある関係を、叩き壊してしまいます。
そしてついに、夫への誇大な嫉妬心によって、本当に彼を愛人の元に走らせてしまい、
そのことでさらに苦しみ、自らの闇を引き出すことで、
皮肉なことに、彼女はまた、言葉を生み出し始めるのでした。
彼女は言います。
「私は今が一番幸せなの。テッドがいなくなってやっと自由になれたのよ」
しかし世間は、彼女を小物の詩人として、また色男のかわいそうな妻としてしか、
見ることはなく、ますます絶望へと落ちていくのでした。
ラスト近く、精神の均衡をくずしつつも、何とか言葉を絞り出しながら、
シルヴィアが、もう一度やり直したいと、テッドを呼び出すシーンがあります。
テッドもまた、誰も君を愛するようには愛せないと言い、
その夜二人は、情熱的に愛を交わします。
ことが終わった後、肌をかさね、シルヴィアが、失いかけていた愛を取り戻そうと、
また二人で暮らしましょうと、やさしくささやいた瞬間、
テッドは、この上なく残酷で、痛烈な言葉をつぶやくのでした。
その言葉を耳にし、静かに目を閉じるシルヴィアの表情に、
そして、テッドが愛人の元に帰った後、一人残された部屋で、
愛の果ての虚しさと、その結果を招いた自分の愚かさとを見つめ、
絶望の淵をのぞくように、裸のまま呆然とする姿に、
鋭利なナイフで刺されたような、冷たい痛みを感じ、息がとまりました。
シルヴィアを演じているのは、グウィネス・パルトロウ。
これが、『恋におちたシェイクスピア』や、『Emma/エマ』を演じていた、
同じ女優だろうか、と思うほどの、深く絶望的な演技に、ただただ圧倒されます。
ストーリーだけを追いかけていけば、
精神的に不安定な女流詩人が、夫の愛を失い、絶望して自殺したように
受け取られてしまうかもしれません。
しかし、グウィネスの深く豊かで、まったく無駄のない演技を見ると、
シルヴィアの死が、生きることの絶望や、愛や性の空虚さを見抜き、
その手触りのなさから、自らを解放していくしかなかった結果なのかと、
彼女の選択を、黙って受けとめたくもなるのでした。
シルヴィアを演じるグウィネスは、ガスオーブンに頭を突っ込み中毒死する直前、
生気のない表情で、パン2枚にバターをぬり、ミルクを二つ、木製のトレーに乗せ、
子供部屋に運び、子供のフトンをかけ直します。
女は、指先から、愛情を紡ぎだしていく生き物です。
食事をつくり、洗濯をし、掃除をし、泣いている子供を抱きしめる。
その同じ女性が、死ぬ前にした最後の仕事が、
子供のベッドの横に、明日の朝の食事を置いておくことだったという、
哀しさと虚しさと、怖さ。
女性として生きること、詩人として生きること、母として、妻として生きること。
それらすべてにバランスを見いだすことは、彼女にとって、人生という平均台の上を、
そぉ〜っと、息を殺して歩いていくことと、同じだったのかもしれません。
その痛々しさに、私の中の女性の部分もまた、引き裂かれる思いでした。
この映画は、アメリカでは知らない人はいない詩人、シルヴィア・プラスの物語ですが、
女優、グウィネス・パルトロウの作品と言ってもいいほどの、
哀しい魂の軌跡を描いた映画です。