◆◇◆AKARI'S WORLD◆◇◆

*** 『あかりの地球一周記』 ***

<<はじめに>>
こんにちは!人呼んで "嵐を呼ぶ女"、井上あかりです。
地球一周の旅を終えてから、はや二ヶ月が経とうとしています。
先月、ななかまど隊長にお会いしたら、
「レポート、まだだよね?」とにらまれてしまいました。ひょえ〜、怖かったよぉ。
……というのはウソです。
でも、軽くジャブを入れる感じでプレッシャーをかけられてしまいました。
そうです、そうです。短いレポートを書いて送るという約束でした。
すみませんね、ホントどんくさいヤツで。

でもね、ちょこっとだけ言い訳をさせてもらうと、
決して約束を忘れていたわけではないんです。
幾度もレポートを書こうとパソコンの前に座り、そのたびに、
船旅の間に書きためた日記を読み返しました。そして思ったんです。
この三ヶ月間を、この悲喜こもごもの三ヶ月間を、"短いレポート" にまとめるなんて、
私にはとても無理だって。

第43回クルーズで、ピースボートは、19ヶ所の港に立ち寄りました。
滞在はどの寄港地も一日か二日。
そんな短い滞在で、その土地の、その国の、いったい何がわかるというのか?
これはおそらく、ピースボートに乗船した多くの人が感じるジレンマでしょう。
だからピースボートのクルーズを、『なんちゃって地球一周旅行』と、冗談めかして
呼ぶ人たちがいるのです。(……私もその一人なんですけどね。エヘ(^^;)ゞ。)
それでも各寄港地で、その土地の風を感じ、その土地の匂いを嗅ぎ、
その土地に住む人々の様々な表情を見ることが、
貴重な体験であることに、変わりはありません。

そしてもうひとつ、ピースボートには、様々な年齢、経歴、個性の持ち主が、
様々な思いを抱いて乗船してきます。
船旅という、非日常に飛び込む決心をしなければ、
何の接点もなかったはずの人たちと出会うことができる。
これこそが、ピースボートの船旅の醍醐味なのだと思います。
さらに乗客だけでも、何百人という単位の人間がいる中で、
何の因果か、親しく付き合うようになった人たち。
彼らと一緒に泣いたり笑ったり、互いに励まし合ったりムカつき合ったりしながら
過ごした時間は、何にも代え難く、二度と手に入れることのできない宝物です。

ですから本当は、三ヶ月の船旅で出会ったすべての人と、
その人にまつわるエピソードを紹介したいのですが、
それはプライバシーの問題もありますしね(^^;)ゞ、
だいたい長期連載にでもしない限り不可能じゃん!……というわけで、
今回は、各寄港地で私が見たこと、感じたことを、
さらっと(ホントか!?)お話しするにとどめたいと思います。(もう十分長いよっ!)



〜寄港地レポート〜
9月26日
★基隆(台湾)★
  初めての寄港地は、三ヶ月の船旅の間、同じキャビン(3052号室)で過ごすこととなる、 ルームメイトたちと一緒に回りました。 三人部屋だったので同室者は二人。
蛍光ピンクの帽子が元気の素!、のピンキー(仮名・22歳)と、
ニット帽をこよなく愛す、フウ(仮名・15歳)
まだまだ異国という気がしない台湾。
なにしろ歩いていても、お店に入っても、すぐには日本人とは気づかれません。
基隆の街が見下ろせる小高い丘の頂上にある公園で、 子ども用のおもちゃの真っ赤な自動車(ポコちゃんの顔が描かれていた)に乗って、 誰よりもはしゃいでいたのは、
一番年上の私でした。(いやぁ〜、お恥ずかしい……)
9月29日
★ダナン〜ホーチミン(ベトナム)★
「ピースボートに乗るなら、絶対これには参加したい!」と意気込んで申し込んだ、
"検証・カンボジア地雷問題"ツアー。
そのスタートの地となったのが、ベトナムのダナンです。
過酷なツアーになるとの説明を事前に受け、覚悟を決めていたはずなのに、 ダナンの港に下り立った瞬間、もわっとした空気、 というか熱気にクラクラ〜。
早くも「こりゃ、ダメかも……」と弱気になる私。だめぢゃん!
この日は、市場を見学したり、ダナンの若者とピースボートの乗客の交流会場をのぞいたりした後、 飛行機でホーチミンへ移動。
そうそう、前日まで「ゼッタイ買わないよ!」と言い張っていたのに、ついついアオザイを購入してしまいました(^^;)ゞ。
9月30日
★ホーチミン(ベトナム)〜プノンペン〜
ポーサット州(カンボジア)★
おそらく、三ヶ月の船旅の中で一番長かった一日。
まずは午前中、ホーチミン市の"戦争証跡博物館"へ。
ベトナム戦争の記憶をとどめるためにつくられた博物館です。
目を覆いたくなるような数々の写真。
枯葉剤の影響を受けた二重胎児のホルマリン漬け。
もちろんここはベトナムの博物館だから、アメリカ軍の残虐性が、 これでもかこれでもかと言わんばかりに強調されています。
でもアメリカ軍の兵士たちだって、泥沼の中でもがいていたはずです。
人間はなぜ、そこまでして戦争なんかするんでしょう?

昼食後、飛行機でカンボジアの首都プノンペンへ移動。
早速、"ツールスレン博物館"へ。
この建物はもともと学校だったのですが、1970年代後半のポル・ポト政権時代に、 刑務所として利用され、"反革命分子"とみなされた何万人もの人々が、 罪もなく投獄され、拷問され、処刑されていきました。
今も教室を改造した独房や集団房、拷問に使われた器具などが残っており、 犠牲者の遺品や写真、拷問や処刑の様子を描いた絵なども展示されています。
以前、ナチスの強制収容所を訪れたときにも感じたことなのですが、 人間は同じ人間に対して、こうも残酷になれる生き物なのでしょうか?はうぁ〜。

博物館見学終了後、4WD車五台に分乗して、今も地雷原の残るポーサット州へと向かいました。 でこぼこ道をホップ・ステップ・ジャンプ!ってな感じで走ること5時間。
午後10時、ポーサット州のホテルに到着。
ここで食べた夕食のおいしかったこと!
カンボジア料理の味付けは、なぜか日本の "おふくろの味" を 思い起こさせてくれるのです。

10月1日
★ポーサット州〜プノンペン(カンボジア)★
ついに地雷原見学の日がやって来ました。
のどかな田園風景の中に点々と立てられている赤い看板には、
ドクロマーク"Danger!! Mines!!"の文字。
この看板の向こう側は、まだ地雷が埋設されている可能性のある危険地帯なのです。

地雷原では、炎天下で行われる、地道で気の遠くなるような撤去作業について 説明を受けた後、今朝見つかったばかりという地雷の爆破処理を 見せてもらいました。
その後、ピースボートからの支援金で建てられた小学校を訪問。
子どもたちにノートと鉛筆を届け、それから、 実際に地雷を踏んで足を失った人たちのお話をうかがいました。

ここでショックだったのは、「最後にピースボートへのメッセージを」と尋ねたところ、
被害者の人たちが口々に、
「もっとお金を集めて、早く地雷を撤去して欲しい」 と答えたことでした。
子どもたちの中にも、
「ピースボートにお願いがあります。学校をもうひとつ建ててください」
と言った子がいました。
地雷撤去作業を行っている団体のスタッフの中にも、
「薬をください。私たちにはマラリアの薬が足りないのです」 と言った人がいました。

確かに日本は、カンボジアより経済的に豊かな国です。
けれども、援助してくれる対象としてしか私たちを見ていないのだとしたら、 それはあまりにも淋しい話です。
支援する側と、支援される側に分かれることなく、 一緒に未来のために何かをしていくことはできないのでしょうか?
重苦しい気持ちを抱いたまま、再び4WDに乗り込み一路プノンペンへ。
途中、車の故障などもあり、プノンペンのホテルに着いたのは夜中の一時でした。

10月2日
★プノンペン(カンボジア)〜シンガポール★
地雷ツアー最終日。
朝食後、プノンペンのセントラルマーケットで、様々な型の地雷や、 ドクロマークと"Danger!! Mines!!"のロゴがプリントされた、 通称"地雷Tシャツ"を購入。
大量に安く仕入れて、ちょこっと、・・・ いえ、けっこう上乗せして船内で販売するのです。
間違ってもぼったくりなんて言わないで下さいね。
上乗せ分は、すべてカンボジアへ寄付するんですから。

そしてピースボートに合流するため、空路シンガポールへ移動。
シンガポールの空港に降り立った瞬間、何とも言い難い違和感に襲われました。
立ち並ぶ高層ビル。綺麗に舗装された道路。あふれる物、もの、モノ……。
同じ東南アジアにある国なのに、この格差はいったい何?
どちらがいいかなんて、簡単には言えないけれど、カンボジアの人たちのはにかんだ笑顔を懐かしく思い出しました。

10月7日
★チェンナイ(インド)★
チェンナイでは、友達二人と三人で自由行動。
隙あらばお金を要求してくるインド人との戦いの一日でした。
いろいろあったけれど、ここではふたつのエピソードを紹介しましょう。
まずは港でゲットしたオートリクシャ (オートバイ式三輪タクシー)の運転手に、
「ここだけは見ておけ」と連れて行かれたヒンドゥー寺院で。
突然、運転手の友人と称する人物が出現。
勝手に寺院の案内をした後、ガイド料を請求してきました。
「ガイド料が必要なら先に言うのが筋」と猛反発する私たちに、 「日本人はみんな払う」と向こうも引きません。
ついに面倒になって二人分だけ払い、「ありがとう」も言わずに別れてしまいました。

そして港へ戻ってきたとき、またもやトラブル発生!
一日5ドルの約束で乗ったはずだったのに、リクシャの運転手が一時間5ドルだと主張。
もはやこちらには言い争う気さえもなく、5ドルだけ渡して、 「さようなら」も言わずに別れてしまいました。
どちらも悪い人でないことはわかっているんです。 こちら側に払うお金がないわけでもないんです。 日本円に換算すればわずかなお金のことで争って、 「ありがとう」も「さようなら」も言わないで別れるなんて、淋しい話です。
でも「日本人はカモだ」なんて思われるのもまっぴら御免!難しいですね……。

10月9日〜10日
★コロンボ(スリランカ)★
コロンボ上陸一日目は、満月の日(ポヤ・デー)
仏教徒が多数を占めるスリランカでは、休日のため、コロンボの街はまるでゴーストタウン。 そこでトゥクトゥク(エンジン付き小型三輪タクシー)を捕まえて、 コロンボ近郊のキャラニアの仏教寺院を訪ねました。
釈迦が訪れたとされる聖地のひとつです。
寺院は祈りをささげる人々で溢れかえり、信仰の深さを感じさせられました。
けれどそれ以上に印象に残ったのは……、 花を抱えて小銭を稼ごうとまとわりついてくる子どもたちや、 赤ん坊を抱いて施しを乞う母親たち。
トゥクトゥクの運転手に、「きりがないから絶対にお金はあげないように」と言われ、 うつむきながら彼らの間を歩きました。
"国際交流"をうたいながら、三万トンの客船で旅する私たち。旅を続ければ続けるほどに、ジレンマが深まってくるような気がしました。
10月17日〜18日
★マッサワ(エリトリア)★
照りつける太陽、そして乾いた風と大地。ついにアフリカの地へ!
・・・・・・なのですが、恥ずかしながらワタクシ、 43回クルーズのパンフレットを見るまで、
エリトリアという国を知りませんでした。
1993年にようやく独立戦争に終止符を打った、 アフリカで一番新しい独立国だそうです。 マッサワの人たちは、やはりまだ観光客ずれしていないのか、 とてもひとなつっこく、物乞いなどもいないので、 安心して街を歩き回ることができました。
・・・・・・な〜んて"のほほん"としていたのがいけなかったんでしょうねぇ。
実はマッサワで、財布をすられてしまいました!
友達と港でキッズジャンベを叩いていたら、地元の若者たちが集まってきて、 いつのまにやら"ミニ交流会"に。
そしてさんざん一緒に騒いで話をして、いい気分になって、 「バイバイ」した後に気づいたんです。財布がないっ!
被害額は大したものではなかったけれど、せっかく楽しく交流していた人たちの中に、
そんな心ない人が混じっていたのかと思うと、がっかりしていまいました。
10月22日
★ポートサイド〜カイロ(エジプト)★
エジプトと言えば?そうです!ピラミッドです!
"世界三大がっかり"と言われようがなんだろうが、 やっぱりエジプトに行くからには、
これははずせないよね。
といわけでエジプトでは、"ピラミッド群を探訪"というツアーに参加しました。
出発は朝の六時。
何台ものバスを連ね、先頭とお尻をエジプト警察の白バイに固めてもらって、 カイロに向かってひた走ること三時間。 まずはエジプト最古の"サッカラ階段ピラミッド"へ。
砂漠の真ん中に立つ、今にも崩れ落ちそうなピラミッドは、 なかなか風情があります。
しか〜し!ここでのんびりと風情にひたることなんて許されません。
なぜなら、商魂たくましきアラブの商人たちが、そこら中にウヨウヨしているから。
ラクダに乗れ、馬に乗れ、ロバに乗れと、強引に腕を引っ張って行こうとする客引きや、 「わんだら、わんだら(1dollar)」と繰り返しながら、 絵はがきや置物を売りつけようとする土産物屋。 彼らのパワーには圧倒されます。
そして問題の"ギザの三大ピラミッド""スフィンクス"ですが・・・・・・。
私は意外と、素直に感動しました。だってとにかくデカいんです。
紀元前に、人力であれだけ大きなものを造り上げたなんて、ものスゴイことですよぉ!
確かに市街地に隣接しているし、舗装道路は走っているし、 スフィンクスの目線の先にはケンタッキーとピザハットが……(^^;)ゞ。
だけど、新しいモノと古いモノが混在していると言えば、京都だってそうですよね。
それはそれでなかなか面白い、と私は思います。
10月25〜26日
★イスタンブール(トルコ)★
イスタンブールは私にとって、このクルーズで一番特別な思い出の残る地となりました。
ちょうどこの頃日本では、自衛隊のイラク派遣を実現させるための動きが活発化。
そしてお隣の国、韓国もまた、イラクへの派兵を巡って揺れ動いていました。
そこで、韓国から乗船していた水先案内人たちと、彼らのサポートをしていた"コリアチーム"が中心となって、 "派兵反対"の意思表示をするため、イスタンブール入港の際にバナー(横断幕)を掲げることにしたのです。
掲げるメッセージは英語とトルコ語の両方で、
"FOR PEACE AGAINST OCCUPATION NO TROOPS TO IRAQ"

シーツを縫い合わせた長さ40メートルの白い布に、 黒と赤の布で作った文字を縫いつけていきます。
イスタンブール入港の前日、廊下に布を広げて作業をしていたら、通りがかった人たちが、 まるで千人針のように、針を手にしてちくちくと、縫うのを手伝ってくれました。
こうして急ピッチで作り上げられたバナーは、結局イスタンブールで三回使われました。
まずは予定通り、バナーを船体に掲げながら入港。
けれども入港時間が朝早かった上、港が市街地から離れていたので、 バナーを見てくれたのは港の係員だけ(^^;)ゞ。
早起きして小雨の降る中がんばったのに、一同がっかり……。(ああ、バナーはみんなで手に持って掲げたんですヨ。)これでは何のために夜を徹して作ったのかわかりません。 そこで、港のカフェで行われる記者会見 (地元NGOと一緒に、イラクへの派兵と資金供出に反対する声明を発表する)の場に、 トルコの警察にストップをかけられることを覚悟の上で、 バナーを持ち込んでみようと計画しました。
ところがバナーを持ち出す寸前に、急遽もう一度船体に掲げるよう指示が。
慌ててバナーを再びデッキに上げて、「せーの!」のかけ声で広げると、 記者会見場にいた人たちから、どよめきと拍手が!
たっぷりと水を含んだ長さ40メートルの布はバカ重かったけれど、 あの時の感動は忘れられません。
そして最後にもう一度、この晩行われた現地NGOと、 ピースボートが共催した"アート・フェス"の会場で、バナーの半分、 トルコ語の部分だけを掲げました。
この時も、イスタンブールの街の人たちから暖かい拍手をもらい、バナー作りに関わった一同にとって、忘れられない一日となりました。

10月29日
★ドブロブニク(クロアチア)〜
モスタル(ボスニア・ヘルツェゴビナ)★
クロアチアの隣国、ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルという街を訪ねるため、 ドブロブニク上陸と同時にバスに乗り込みました。
モスタルはボスニア戦争(1992年〜95年)の最激戦地だったと言われています。
旧ユーゴ時代には、セルビア人、クロアチア人、ムスリムの各民族が共存し、 中世に築かれた"オールド・ブリッジ"と呼ばれる橋が有名でした。
しかし旧ユーゴ解体後、ムスリム地区とクロアチア地区に二分され、 両者の間で激しい戦いが繰り広げられることとなったのです。
街の誇りだった"オールド・ブリッジ"も、戦争中に破壊されてしまいました。
私がモスタルを訪ねるツアーに参加したのは、何年か前に見た、 "オールド・ブリッジ"で行われていた飛び込み大会を、 遺恨を超えて復活させようと奔走する元兵士を取り上げた、 テレビドキュメンタリーが強く印象に残っていたからです。

クロアチアとボスニアの国境は複雑に入り組んでいて、 バスはいったんボスニア領に入ったかと思うと、 またクロアチア領へと戻ります。
しばらく車窓から景色を眺めていたのですが、知らないうちに眠りこけていたらしく、 ふと気づくと、バスは既にモスタルの街に入っていました。
道の両脇には、まさに蜂の巣のように壁に銃弾を撃ち込まれた建物が、 廃墟となって放置されています。戦争が終わって8年も経つのに、 これほど内戦の傷跡が残っているとは、正直思ってもいませんでした。

そして地元NGOスタッフの案内で、旧市街を散策していた時。
車がやっと行き違えるくらいの細い道で、「こっちはクロアチア人地区で、こっちはムスリム地区」と教えられ、 本当にびっくりしました。
かつて普通にお隣さん同士として暮らしていた人たちが、 なぜ互いに銃を手にして撃ち合わなければならなかったのでしょうか?
"民族浄化"など、本気で望んだ人たちはいたのでしょうか?
結局は、一部の人たちの利権争いに、一般の人たちが巻き込まれ、 憎しみと恨みの連鎖が広がっていったということなのではないでしょうか・・・?

問題の"オールド・ブリッジ"はと言うと、ちょうど再建作業が終わったところでした。
今はもう、クロアチア人地区とムスリム地区を自由に行き来することもできます。
しかし、壊れた橋は修復できても、一度壊れた人と人とのつながりを修復するのは簡単なことではありません。
地元NGOスッタフの人がこう言っていました。
「目に見える壁はなくなったけれど、
人々の心の中には、依然として壁が存在しています」

この夜は、ムスリムのSenadaさんという女性の、お姉さんの家に泊めてもらいました。
おずおずと「戦争の話を聞いてもいい?」と尋ねると、ボスニア戦争が始まった経緯や、 戦争が始まった後、クロアチア人地区に住んでいたSenadaさん一家が、 軍警察によって強制的に追い出され、ムスリム地区に移り住んだことなどを話してくれました。
けれど、"戦争が始まったとき、どう思った?"という私のおバカな質問には、
「どうもこうも・・・」という感じで首を振っただけで、何も答えてはくれませんでした。

10月30日
★モスタル(ボスニア・ヘルツェゴビナ)〜
ドブロブニク(クロアチア)★
朝8時半、各ホームステイ先に散らばっていたツアー参加者が集合。
ホストたちに別れのあいさつをした後、バスに乗り込み、一路ドブロブニクへ。
昼前には、ドブロブニク旧市街の入口に到着。ここでツアーは解散となりました。
"アドリア海の真珠"と呼ばれるドブロブニクは、中世の面影を残す美しい港町で、
宮崎駿監督の映画、『紅の豚』『魔女の宅急便』の舞台とも噂されています。
すべての家の屋根が、オレンジ色のレンガで統一され、 城壁に囲まれた旧市街全体が世界遺産となっています。
この街もまた、旧ユーゴ紛争の際、大きな被害を受けました。
しかし、ユネスコの世界遺産に登録されていたこともあって、 いち早く復興作業が行われたのです。
内戦の傷跡がなかなか癒えないモスタルから戻ってきたばかりの私としては、
ちょぴりフクザツな気持ちになりました。
11月1〜2日
★ナポリ(イタリア)★
上陸一日目、ナポリ近郊にあるポンペイの遺跡を訪ねました。
西暦79年8月24日、火山の噴火によって灰に埋もれた古代都市です。
噴火直前のポンペイの人口は、約二万人と言われ、ローマ帝国の支配下で商業地として 栄えていたそうです。
"1700年もの間、地中で眠り続けていた古代都市"というキャッチフレーズに、 なんとなくロマンチックなイメージを持っていたけれど、 実際に行ってみると、古代ローマ時代に、既にこんな機能的な街があったのかと驚かされます。

碁盤の目のような街路には、なんとしっかり横断歩道が!
鉛の水道管も引かれ、水飲み場まであります。
ローマ時代の遺跡というと、神殿や円形劇場ばかりを思い浮かべがちですが、 ポンペイには、公衆浴場やサウナ、普通の住宅や商店(パン屋や洗濯屋など)、 そして居酒屋や売春宿も遺されています。
ちょっと面白かったのは、売春宿のある通りへと入っていく道の歩道に、 "男性のシンボル"が彫られていたこと。
理由は、文盲の人にもわかるように、とのことです。親切ですね(^^;)ゞ。

「人間の生活の営みって、今も1900年前も、基本的には変わってない じゃん!」
それが、ポンペイを訪れた感想でした。

11月4日
★アルジェ〜ブーメルデス地方(アルジェリア)★
長年の政情不安による治安悪化のため、観光客が激減してしまっているアルジェリア。
ピースボートは今回、日本の外務省が出している、 「渡航の延期をおすすめします」という情報を振り切り、 アルジェに初寄港しました。
客船が寄港するのは12年振りというだけあって、ものものしい警備体制です。
アルジェリア当局からは、「全力を挙げて安全を確保します」との書面も届きました。

そんな中私は、2003年5月21日に発生した、大地震の被災地を訪ねるツアーに参加しました。 アルジェリアは、阪神・淡路大震災の際に、いち早く神戸に大型テントを届けてくれた国。 その恩返しのためにも、今度はアルジェリアの被災地に、日本から支援物資を届けようと、 ピースボートでは出航前から、"アルジェリア震災復興支援キャンペーン"を行っていたのです。
「被災地で今もテント生活を送る人たちに、直接自分たちの手で支援物資を届ける」
それがこのツアーの目的でした。
そして確かにその目的は達せられたのですが・・・、残念ながらこのツアー、 私にとっては消化不良なものとなってしまいました。

その原因のひとつは、被災キャンプの人たちと交流する時間がほとんどなかったこと。
表敬訪問などに予想外に時間を取られてしまった結果、 ババッーと行って、ドンッ!と物資を置いて、ザザッーと引き揚げるという、 なんとも淋しいツアーになってしまいました。
そしてもうひとつ、これは後から聞いた話なのですが、ツアー参加者数名が、 キャンプで被災者の女性たちに呼び止められ、
「物資を持ってきてもらっても、いつもお金持ちの人たちが先に取ってしまって、 なかなか私たちにまでまわってこない。できればひとつひとつのテントに個別に物を配って欲しい」
と言われたそうです。
けれどピースボートとしては、そこまですることはできないのだそうです。
本当に必要としている人たちに届かない支援・・・。
そう考え始めたら、なんだかとても落ち込んでしまいました。

11月6日
★カサブランカ(モロッコ)★
モロッコでは、同年代の友人二人と自由行動。
本日のテーマはずばり、"大人の休日"です。
まずは鉄道に乗って、首都ラバトへ。早速五つ星ホテルで、モロッコ産のビールを味わいながら、 のんびりとランチ。
それから少々街を散策した後、カサブランカへ戻り、今度は土産物屋を物色。
そして夕食は、再び五つ星ホテルにて、ワインを飲みつつモロッコ料理を堪能しました。
・・・ここまで読んですっかりあきれた人たちに、ちょっぴり言い訳させてもらいますが、
この時期イスラム教国は、ちょうどラマダン(断食月)に入っていたんです。
つまり日の出から日の入りまでは、外でおおっぴらに食べたり飲んだりすることは、 外国人と言えどもはばかられます。
というか、そもそも普通のレストランやカフェは、開いてないんです。
で、唯一の例外が、ホテルの中のレストランやカフェ。 だからってわざわざ五つ星ばかりに行かなくても!、と言われてしまうと、 返す言葉がないんですが・・・(^^;)ゞ。
ま、そこはひとつ、"大人の休日"がテーマってことで、ね!?
11月8日
★ラスパルマス(スペイン領カナリア諸島)★
最近、"大西洋の楽園"と言われ、注目を浴びているカナリア諸島
憧れのリゾート地として、ヨーロッパを中心に、年間一千万人以上の観光客が訪れているそうです。 ピースボートが寄港した、グラン・カナリア島にあるラスパルマスは、カナリア諸島最大の港町。
グラン・カナリア島で私が一番見たかったもの。それは、"砂丘"です。
ちょうどこの3ヶ月前、日本の誇る(!?)鳥取砂丘を訪れていた私としては、 どちらの砂丘が立派か、ぜひともこの目で確かめたかったのです。(ほんまかいな!?)
とにもかくにも、ラスパルマスからバスに乗ること約一時間。
マス・パロマスというリゾートビーチに到着、砂丘があると思われる方向に歩き出しました。 水着姿でリゾート気分にひたる人たちの間を、"ジーパン・長袖シャツ・スニーカー"といういでたちで歩く私。 イケてないけど仕方ありません。
そして辿り着いた砂丘は・・・。
うーん、マス・パロマスの砂丘と鳥取砂丘、正直どちらにも軍配を上げかねます。
つまりは同程度だった、ってことですね(^^;)ゞ。
そうそう、砂丘へ向かう途中、ヌーディストビーチを通過しました。
「いや〜ん!」と恥じらうようなお年頃は、とっくに過ぎてしまっている私だけれど、 三段腹の中年男性五人が、素っ裸でビーチバレーをやっている光景は、 ものすごいインパクトがありました(笑)。
ええ、もちろんいいんですよ。本人達が気持ち良ければね。
11月15日
★ブリジッドタウン(バルバドス)★
どぴゅ〜んと大西洋を横切りまして、ついにやって来ました。紺碧のカリブ海です!
かつてイギリスの植民地だったバルバドスの公用語は英語
けれどこれが独特の発音で、いわゆる米語に慣れてしまっている日本人には、 なかなか聞き取るのが難しいんです。
しかぁ〜し!イギリス英語やアメリカ英語ばかりが英語ではありません!
世界中にはいろんな英語があるんです!
・・・てなわけで、本日はGETチャレンジプログラム"バルバドスで文化交流"に参加しました。 (ちなみに"GET"といのは、船内で行われている英会話教室です)
交流相手は、イギリスの支配によって失いかけた自分たちの文化を、 もう一度見直そうという啓蒙活動を行っているNGO。
地元のコミュニティーカレッジで、伝統的なカリビアンダンスを教えてもらいました。
太鼓の生演奏をバックに、ものすご〜く楽しかったんですけどね、 日本人にはゼッタイあり得ないっ!って動きがいっぱいありまして、 とても同じダンスを踊ってるようには見えなかったです。 だいたい、バルバドスの女性たちのスタイルの良さったら!
ハナっから勝ち目はありません。いや、勝ち負けの問題じゃないんですけどね(笑)
11月16〜17日
★ラグアイア〜ベンポスタ共和国(ベネズエラ)★
ベネズエラでは、"ベンポスタ子ども共和国"を訪ねるツアーに参加。
ちなみにベンポスタ子ども共和国は、元々スペインで、シルバ神父という 一人の若き神父によって作られました。
「強いものが下に、弱いものは上に、子どもはてっぺんに」という理念をかかげ、勉強から、 労働、サーカス、政治まで、子どもが中心となって行っている共同体で、互いに支え合い、 信頼し合わなければ成功しない"サーカス"を通して、 平等な世界の実現を求めているのだそうです。
このツアーでは、ベネズエラの二つのベンポスタ共和国を訪れたのですが、 今回は、初日に訪問した、ロス・フライレス村のベンポスタのみご紹介します。

この日、当初の予定では、午後2時過ぎにはベンポスタに到着するはずでした。
しかし実際に着いたのは午後6時半。実は途中で思わぬアクシデントが。
ロス・フライレス村へとバスで向かっている途中、 バリケードを築いて道路を封鎖している人々に遭遇したのです。
はっきりした情報は入ってきませんでしたが、水を止められたことに対する抵抗、 あるいは水が止まったまま放置されていることに対する抵抗だったようです。
とにもかくにも、ベネズエラのベンポスタを取り仕切るマリアさんの、 30分にわたる説得も及ばず、バスは別の道へ。
しかし結局、その道はバスが通れるような道ではなかったため、また別の道へ。
そして辺りもすっかり暗くなってしまった午後6時半、 ようやくベンポスタ子ども共和国に到着、子どもたちの出迎えを受けました。

まずは子どもたちによって構成されている内閣の紹介から。
市長はなんと、19歳の女の子です!
そして敷地内を案内してもらった後、いよいよサーカスが始まりました。
このベンポスタはまだ新しいので、サーカスの方もまだまだ訓練中なのでしょう。
ボロボロとミスの連続だけれども、あまりに一生懸命な子どもたちの姿に、思わず、
「がんばれ!がんばれ!」と日本語の声援が飛びました。
サーカスのハイライトは、「強いものが下に、弱いものは上に」というベンポスタの理念を象徴的に表す、 "人間ピラミッド"
大きな子どもが小さな子どもを支え、その子がまた、自分より小さな子どもを支えます。
本当にこういう世界が実現できたらいいのにね・・・。
そう思ったら、ほんの少し、目の前の光景がぼやけて見えました。
そしてこの後、貴重なお水と食料を分けてくれた、ベンポスタのみんな、どうもありがとね!

11月20日
★カルタヘナ(コロンビア)★
コロンビアと言えば多くの日本人が、"麻薬"や"誘拐"なんて言葉を、一番に思い浮かべるのではないでしょうか?
私も正直なところ、"コロンビアは怖い国"という印象を持っていました。
でもピースボートは、そんなマイナスのイメージを持たれがちな国々も、 どんどん訪問してしまいます。
今回寄港したカルタヘナは、スペイン統治時代の城塞や建物が今なお残る、 とても美しい街でした。
そしてこの日私が参加したのは、"パレンケ/子孫たちの挑戦"という交流コース。
"パレンケ"というのは元々、逃亡奴隷たちが作り上げたコミュニティの名称でしたが、
今では、アフロコロンビアンのコミュニティの総称として使われているようです。
私たちが訪ねたのはそのひとつ、アロージョ・デ・ピエドロ村。
この村では、貧困からの脱却を目指して、現在、二つのプロジェクトに挑戦しています。
マングローブの植林と、エビの養殖池造りです。
マングローブは、生態系を豊かにすることから、"生命のゆりかご"と呼ばれています。
つまりこのプロジェクトには、マングローブの森を作ることで、川に魚や貝やエビが増え、
その結果、村の人々の生活も豊かになっていくであろうという期待が、
込められているのです。
この日私たちは、村の人たちと一緒に、マングローブの苗木を植林してきました。
一本一本植えるごとに、うまく育ってくれるようにと願いを込めました。
一緒に泥んこになって苗木を植えた子どもたちが大きくなる頃には、豊かなマングローブの森が広がっているといいなぁ。
11月25〜26日
★アカフトラ(エルサルバトル)★
エルサルバトルでは、韓国からの水先案内人、カン・ジェスクさんと、4人の日本人で自由行動。 ところが船を下りる直前に、パスポートを携帯していないと、 寄港地であるアカフトラ市外には出られないということが判明しました。
中南米の国では、法律がころころと変わることも珍しくないそうで、船会社も旅行代理店も、 現地に着くまでその事実を把握していなかったのです。
そして、このときパスポートを持っていたのはカンさんだけ。
けれど、私たち日本人4人も、パスポートのコピーと上陸許可証は持っていたので、 思い切ってアカフトラ市外に出てみることにしました。
要は、警察官のパスポートチェックに引っかかりさえしなければいいのです。

一同が目指したのは、首都サンサルバトルへの中継点となっている、
ソンソナテという街。
まずは炎天下、港の出口までてくてくと歩いていると、 コンテナを運ぶ大型トレーラーが止まってくれ、ソンソナテ行きのバスの停留所まで乗せていってくれることに。
ラッキー!
そしてソンソナテ到着後、通り沿いの出店を覗きながら歩いていると、 思わぬ事件が発生しました。 ココナッツの実を割る、大きな大きなナイフを持った若い男が、ずっと後をつけてくるのです!
みんなに一斉に緊張が走ったけれど、カンさんの「気にしない方がいい」の一言で、 なんとか平静を保ったフリをして歩き続けました。
男はしきりと話しかけてくるのですが、私たちにはスペイン語がわかりません。
困ったあげく、銃を持った警備員のいるスーパーマーケットに逃げ込もうとすると、 男は手を振りながら去っていきました。
どうやら、友達になりたかっただけのようです。気の毒なことをしました。
(でも、それならナイフなんて持って歩くなっ!)

お昼は、屋台村のようなところで、地元の料理にチャレンジ。
その後市場を抜けて、町はずれにやって来ました。坂道をずっと上がっていくと、両脇にバラックが建っています。
長く凄惨な内戦が続いた、エルサルバトル。
1992年に和平合意が結ばれたものの、未だ、"平和"からはほど遠い状態にあると言われています。 貧富の差、女性差別、環境問題・・・。
この国では、ほんの一握りの人間を除いては、まだまだ"生きてゆくこと"そのものが困難なのです。

坂の上から街を一望した後、再び市場へと戻り、今度は、気になる食べ物をちょこちょこと買い食い。 そうしてぶらぶら歩いているうちに、第二の事件が発生しました。
警官二人がやって来て、パスポートの提示を求めてきたのです。
カンさんが、笑顔ですばやくパスポートを見せましたが、警官たちは当然のことながら、 ほかの四人の分も要求してきます。
仕方なく私たちは、パスポートのコピーを取り出しました。
しかし、彼らは、それでは納得しません。「コピーではなく、パスポートそのものを」と繰り返す彼らと、 笑顔で「グラシアス」を繰り返す私たち。
結局根負けしたのは、警官たちの方でした。
最後は笑って、「もういいから行け」という感じになり、一人一人握手をして別れました。
こうして、"エルサルバトル・サバイバルツアー"(カンさん命名)は終了しました。

余談になりますが、いつも穏やかな笑顔を絶やさなかったカン・ジェスクさんは、 ここ、アカフトラでピースボートを下船しました。 当初の予定では、フルクルーズ乗船するはずだったのですが、 アメリカ政府がビザを下ろさなかったため、残りの寄港地、 サンフランシスコとハワイに行けなくなってしまったのです。
詳しい事情はわかりませんが、平和運動や反戦運動を行っている人たちに対して、
現在のアメリカ政府が、どれほどピリピリした対応をとっているのかということが、垣間見られました。

12月3〜4日
★サンフランシスコ(アメリカ)★
実は私、アカフトラを出港した時点で、「ああ、これでピースボートの旅も終わったようなもんだ」 と思ってしまいました。
だって残りの寄港地、サンフランシスコハワイって、 いくらだって個人旅行で行けるところでしょう?
というわけで、サンフランシスコでは、同じく「なんだか気が抜けちゃった」 という友達と一緒に、"着物を着てホテルに泊まりに行こう!" というツアーを勝手に作りました(笑)。
ツアーの主旨なんて訊かないでくださいね。もう、そのまんまです。
着物を着て、風呂敷包みを抱えて、ホテルに直行!
そしてホテルの中で、「ダメダメだねぇ〜、私たち」と言いつつ、 ひたすらダラダラ、ダラダラ、ダラダラ・・・。
ホテル以外にどこへ行ったかと言えば、チョコレートで有名なギラデリスクエアのみ(^^;)ゞ。まあ、こんな寄港地がひとつくらいあってもいいですよね???
12月10〜11日
★★ハワイイ(アメリカ)★
今クルーズの寄港地に入っていなければ、おそらく一生訪れることはなかったであろう
ハワイイ。(ピースボートでは、より先住民族の人々の言葉に近い表記で、"ハワイイ"と呼びま す)リゾート地はあんまり好きじゃないんです。
そんな私の、ハワイイでの一番の思い出と言えば、スカイダイビングの タンデムフライトを体験したこと!
"バカと煙は高いところにのぼる"ということわざを地で行く私にとって、スカイダイビ ングは長年の憧れだったのです。

ワイキキから車で走ること一時間。スカイダイビングショップのあるノース・ショアに到着。
いきなり英語の書類を手渡され、「これ、全部読むの?」とげんなりしていたら、 ちゃんと日本語の"見本"がついていました。
しかしこれ、「見本通りに○印をつけ、サインをしてください」と書いてあるだけで、 書類の内容についての説明は一切なし!
「いいのか、これでっ?」と戸惑っているうちに、あっと言う間にインストラクターを紹 介され、ハーネスを装着。
担当インストラクターのジムと、「あんまり緊張してないみたいだね?」
「昔、ちょとだけハンググライダーやってたから」なんて会話をかわしているうちに、
セスナ搭乗の順番がやってきました。

セスナはすぐに離陸、ぐんぐんと高度を上げて行きます。
そして約1万3000フィートに達したところで、開け放たれたハッチの横にスタンバイ。
「1・2・3・Go!」のかけ声とともに、ジムに教えられた通り、 後ろ向きにエビ反りジャンプ!そしてすぐに空中で両手を広げて、降下姿勢をとりました。
落ちているはずなのに落ちているとは思えない、なんとも不思議な感覚。
むしろ下から、風で押し上げられているような感じさえします。
ジムが大きな声で、眼下に広がる風景の説明をしてくれていますが、 風圧がすごくて返事ができません。 パラシュートが開かれたのは、約5000フィートまで落ちてから。
あとは美しい山や海を眺めながら、ゆっくりゆっくりと舞い降りてゆくだけです。
ジムがラインを握らせてくれたのが嬉しくて、パラシュートを右へ左へと旋回させていたら、 調子に乗りすぎて酔ってしまいました(^^;)ゞ。
それでも最後のランディングを無事に決め、「Good job!」「Thank you!」
と言い合いながらジムとハグ。
私に付き合う形で一緒に飛んだ友達も、「気持ちよかった!サイコー!」と喜んでいて、
ホッとしました。ね?NORI☆NORI?

そして最後の寄港地ハワイイでは、もうひとつ忘れられない思い出づくりをしました。
たわいもないことなんですけどね。ピアスホールを一つ増やしたんです。
友達が「地球一周記念に増やしたい」というので、私もつられてしまって。
もしももう一周したら、またひとつ増やすんでしょうかね(笑)?

12月22日
★東京(日本)★
いよいよ東京晴海へ帰港してまいりました。
本当は21日に晴海、そして翌22日に神戸に到着する予定だったんです。
ですがなにしろ、"嵐を呼ぶ女"が乗っていますからねぇ〜(^^;)ゞ。
強い低気圧に行く手を阻まれ、最大出力を出しても船は遅々として進まず、結局24時間遅れで 晴海に帰港することとなったのです。
そしてこの遅延にともない、神戸から乗船してきた人たちも、晴海 で下船し、陸路で神戸へ移動することになってしまいました。

下船は午前中から始まりましたが、上の方の階のキャビン(お高いお部屋ですね)の人たちから順に下 船してゆくので、最下層(またの名をスラム街という)の3階の住人にいつ順番が回ってくるかなんて、 予想もつきません。
しかもルームメイトのピンキーがポーター役を買って出たため、3052号室から同時に 下船するのは、フウと私の二人ということに。
すっかりがらんとしてしまった部屋の中で、「三人で乗り込んだんだからさ、三人で一緒に下りたかったよね」、 とちょっぴりしょんぼりしながら順番を待つフウと私・・・。
そして一時をまわった頃、ついにポーター役の船員たちがやってきました。
彼らが、トランクやら段ボールやらをカートに乗せ、ターミナルの入口まで運んでくれるのです。 それから税関の検査を笑顔ですんなりかわし、走るようにカートを押しながら税関の外に出たら・・・。

そこにはなんと、"Welcome Home !! AKARI" という紙を掲げた、ななかまど隊長が!そして少し遅れて、行きも 見送りにきてくれた、友人まみこが到着。
わざわざ半休をとって来てくれたのです。二人ともありがとう!

さて、これにて "なんちゃって地球一周の旅" もお終い、お終い。
三ヶ月間、濃密な時間をともに過ごした人たちと別れるのは、とても淋しいことです。
中には、これからも親しくつき合っていく人もいるでしょう。
それから、年に何度か顔を合わせるくらいのつき合いが続く人も、ときどきメールで近況を報告し合う くらいのつき合いが続く人もいるでしょう。
そして・・・、もう一生顔を合わせることがない人もいるでしょう。
それは仕方のないことです。
けれど、彼らと一緒に過ごした時間があったということは、変えようのない事実であり、
死ぬまで失うことのない宝物です。
ピースボートを通して出会った全ての人に感謝します。
そして日本で私を待っていてくれた人たちにも感謝します。
みなさんの未来に、いい風が吹きますように。

2003.2.21
LOVE & PEACE
あかり



CLOSE